昭和44年05月12日 朝の御理解



 御理解 第95節
 「世には神を売って食う者が多いが、この方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」

 昨日鳥栖の上野さんがお参り、家族中で参ってきました。先日ご案内を受けてある佐賀県の教会、ある教会に御大祭の案内を受けてお参りをしたいというので。上野さんのお母さんになります、上野さんの奥さんのですね、方が今度あちらの信心が、まぁ素晴らしいと言うので、あちらのお母さんのお話をある先生が聞きにみえて、それは小さいパンフレットになったそういうことの関係から、その娘である所の上野さん達も夫婦で呼ばれて、いろいろとおかげを受けて来た話をなさった。
 その事がまぁ信心の手本になるというので、佐賀県代々の五百十年、立教110年を目指して色んな信心の共励などが進められております、そういう大会の時にそれがパンフレットになってまぁ出たというのですね、それ、頂いてきたからという見せられました、みんなその匿名になっておりますけれども、そしてお婆ちゃんの事がずうっと書いてございます。そんな事でそのうまぁその事のお世話をなさった先生が、そう言う風で知り合いになられたから、そこの大祭に案内を受けて行かれた訳です。
 そしてそのうまぁたまがられた、たまがられたと言う事じゃないけれども、そのまぁ以外に思われたと言う事は、もう何十年になります教会だそうですが、お参りさせて頂いた小さい教会ですが、そのうまぁその御信者と言うのは、まぁ十名足らずの方で、その方達は勝手の方の御用をしておられるから、お広前にはそのう座っておる者がない、先生方だけはやっぱり沢山見えてお祭りがあった、でまぁあっちこっちから案内を受けた方達が何人かお広前に座っておれる、と言う様な御大祭であったとこう言われるそうです。
 そのう何十年もたった教会に、その何名かのご信者さんがおられると、それでもやはりその教会は維持される、立ち行きまぁ何とはなしに立ち行き行っておる訳です。ですからその教会の為に、まぁ立ち行くために何名かの信者さんがおられるということに、まぁなる。ですから私は今日の95節というのは、まだいろいろな例というのはありましょう、本当にあのうお守り札をいくらいくらと売って、それがそのお寺さんなりお宮さんの維持費になっておると言う様な所も沢山ありますですね。
 ご祈祷をなさればご祈祷料いくらと、言う様に金額が決められて、そのご祈祷の数の多い事によって、そのお宮さんが繁盛しておると言う様な所もありますね、まぁそう言う様な事も仰ったんだろうと思いますね、もうそのう金光様の信心は銭金では拝まんと仰るのは、いっぺん拝んでやるのに幾らぞと言った様な方では、生き方ではないと言う様な事だと思いますけれども、はっきり言うと私昨日上野さんから聞かせて頂いたその教会の、その在り方と言うものがです。
 結局まぁかろうじて金光様の看板を上げておる事によって、まぁ生活がしかも何十年出来て来ておると言う事に過ぎないというのは、やはり神様をただ生業生活の為に頂いておると言う様な風に頂けん事はないと思うですよね、それは例え五人でも十人でも、本当にその教会の御取次の働きによってです、本当に助かっていっておる、それは尊い事であります。ですからそういう一概にはいえませんけれども、それが只その教会家庭がその事に、その何人かによって生活をしておられる。
 立って言っておられるだけだと言う事であったら、これはまぁそこの取次者としてはおおいに考えなければならない事、相済まん事だと、まるきり自分の所では生活の為に、自分方の生活の為に、金光大神が何人かの信者をつけておって下さるような、感を呈しておりますから、ここにやはり猛反省をしなければならない事だとこう思うんです。それでこれは信者の立場と言うかね、お互いの場合でも又そんな事が言えれると思います、まぁいうならばおかげを頂くから、誰でもお参りをするのでございますけれども。
 そのうおかげを頂くから信心をしておるというのであったら、これは同じような意味の事が言えれるじゃなかろうか、いわゆる現金なんねおかげを頂くけん参りよる、おかげを頂くけん信心しよるとというのであっては、けれどもやはりみんな始めはそうですけれども、段々教えを頂かせて貰えれば頂かせて貰う程、そんなものじゃない事が分かって来る、いわば信心をするからおかげが付いて来ると言う、信心にならなければいけないと言う事です。お参りするからおかげを頂くというのですね。
 まぁ適当ではないかも分かりませんけれども、神を商法に使っておる神をただ便利の為に使っておると言う事になるじゃないでしょうか。たまには参るがたあるです、それは確かにそうですね。まぁ土曜今日もあそこに参って来ておられますけれども、北野のあの上野さんですね自転車屋さんです、もうこの人達の場合なんか、もちろん恵子さんが信心をもって上野さんお家に参りつかれた、親の信心があるからおかげを受けておるのでもありますけれども。
 恵子さんがちょっと信心に向くとですね、もうおかげがはっきりしてくるんですね、あそこの場合。でそれでそれえで一時ばかり待っている訳です、そしてこの頃もういっちょんこう商いの方が不振になったち言い出すと、これはやっぱりご無礼しとるけんで、ちうごたるふうでお参りをして来ると、もう本当にすぐおかげを受けるんですよ、自転車屋さん、自転車が次々と思いもかけないところから、その言うて来たりですね、思いもかけない単車が次々と売れたり、もうこれは本当に不思議なくらい。
 でそういう風にはっきり神様が頂けておると言う事は実に尊い事である、またおかげをそれはいけないというのじゃない、けれどもそういうことを繰り返し繰り返し、はぁ神様から手を離されると手をかけられというのはこんなに違うのだと。先日からもどうもこの頃ご無礼しとった、その自転車単車やら商っておられる訳ですが売れんそうです。それで最近は敏夫というご主人が、もうこの頃ずうっとその恵子さんを自動車に乗せてから表までやってくる、だからあんたもちょいっと寄りなさいちいうばってん、照れくささなんかで寄らん、けれどもですやはり恵子が参ってくれるけん、おかげ頂くちいうことだけこの頃分かりよるごたるふうち、それで自分が朝やっぱ朝早うからですね、4時5時か起きらなきゃいけませんでしょう、だから眠かばってんやっぱここに送って下さる、もうそれは今日もそこまで来とんなるに違いはないのです。それで自動車の中で心の中でやっぱ拝みよんなさるに違いないね、なかったらいくらその愛妻の為でも毎朝毎朝送って来ませんよね、はっきりしてるからそしてそれでこの頃分かってきたから、恵子が参りおきさえすりゃやっぱりおかげ頂く、家が繁盛しよると思いったつはやっぱり神様のおかげと言うことが段々分かって来たんです。ね。
 そしてなら無信心なるとまぁピタッと思われるぐらいに、そのういろいろ問題が起こるだけではなくて、商いの方にもが違うとこう言うのですね、ですからならそういう信心がです、これからもずうっと続くと言うならばです、いうなら神様を商法に使っておる様なもんです、商売繁盛の為に神様拝みよるとと言う事になるのですね、それをとうやこうていうて神様が仰るような神様でじゃないけれども、こりゃ信者の立場としてですね、それではいけないと言う事が分かる。
 先日から愛子さんがこんど学院へ入りますから、まぁ兄弟の事ですからもう何かとその、まぁ入費がありますそれをまぁ恵子さん、自分の内職をさせて洋裁をしておりますから、その中からお姉さんが行かれるのだから、あれもこれもとまぁ細かい所まで心を使うて御用させてもらう、最近ではそのご主人敏夫さんもやはりその事にいろいろ御用をされる。ところが昨日参ってきてから恵子さんのお届けですもん。
 本当にこうやって姉さんが誰ぁれん世話役がないけんあんただんが、世話やかせてもらわんならんちゅうのじゃなくてから、本当に神様にお供えさせて頂く、神様の御用をさせて頂くという気持ちでさせて頂きよりますがです、先生もうそん位なこつじゃなか位に、ちゃぁんと神様がおかげを下さいますと言うております、勿論そこには強力な強い祈りと言うものが上野さんが、そういう祈りを自分の家の上に送っておるからではございます。けれどもそこに本当にこの神様は現金だと思われる位に。
 はっきり心を向けよる、そういうおかげを受けておるんですがです、でそういうおかげを受けるから、なら信心が続いておるというとです、人間ですから調子がよくなって参りますとまた信心が疎かになって来る、疎かになって来ると、また神様の方も疎かになってきます。何かと不妙意な事になって来る。それからまたならお願いに行くお参りをするという、そういう信心をです繰り返、繰り返させて頂いておる内にね、これではならんと分からせて頂く事から本当の信心と言うか。
 いわゆる信心の開眼というか、本当の信心と言うものが少しづつ分かって来る、そこで例えば売れるとか売れないとか、自分の思うようになるとかならないとかと言う様な事は別としてですね、信心がさせて頂かせて貰う事が当然の事として信心がなされて来る所にですね、当然な事としてのおかげいわゆる信心するから、おかげがついて来ると言うおかげになって来る。おかげを頂くから信心するというところからね、一つの過程ではありますけれどもそこん所に開眼しなければです。
 本当の信心の喜びと言うものは頂かん、おかげの喜びはありますけれども、信心の喜びが何時まで経っても頂けん、信心の喜びでなかなければねあの世には持っていかれんですよ、おかげの喜びは絶対駄目ですその信心の喜び。ですからです例えば道教えの大綱中に「疑いを離れて広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてあると、疑いを離れて広き真の大道を開きみよ、わが身は神徳の中に生かされておる」。例えば今私が申しました様な事をです、疑わずにほんにそうだと分からせて貰う所からですね。
 わが身は神徳の中に生かされてあると言う事は徐々に分かって来る。そしてこの様な大きなお恵みの中に、私共が日々お生かしのおかげを頂いておるということが分かって来る、もう見るもの聞くもの味わせて頂くものね、全てが御神徳の現れであると言う事が分かってくる。その御神徳の現われが分かって来るから、その神様はそうしてお働きの事に対するお礼の心と言うのが信心になって来るね、いわゆる神恩報謝の信心、神恩報謝の生活その事がなされてくる。
 神恩報謝の信心、神恩報謝の生活、その神恩報謝の信心と生活とが一つになる、私は生き方を教祖の神様は、ご自身が求めに求められてそこんところを分かられる。そこんところを体得なさりそしてここに教えておられるような御理解になって来とるじゃなかろうかと思います。そこからですよね、いわゆるそこからなされる所の信心、神徳の中に生かされてある、神様のおかげを頂かなければ立ち行かん、お願いをするからおかげを頂く、おかげを頂くからお参りをする。
 だからこれはお願いをしとっただけ、お参りをしただけそこを繰り返し繰り返し、まぁ通らせて頂く内に、もう神様のおかげお働きと言うものをね、疑ういわば余地がなくなってくる。今恵子さんあたりなんかは段々そこになってきたね、神様の働きちゃ本当に条件に及ばんごたる、こちらが一心に向けていきゃ神様快くおかげを下さる、これこれと言うて神様に言うならばお供えをさせて頂きゃ、神様はその通りなこつ段じゃない、おかげはちゃぁとそれに引き換えに下さる。
 神様と言う方は不思議なお方じゃと有り難い事じゃと分かって来る。ですからここまでが分かってだけの信心であったらです、それは神様をただ便利主義ですね、神様を商法に使っておると同じ事なんですよ、自分のただ生活の為に神様をいわば凝視するようなもの使うようなもの。これでは神様の喜んで頂けれる信心にはなってこない、いうならば神様に使われての喜び、神様に使われる喜び、そこに私は限りないおかげに繋がっていく元がそこにあると思うね。
 限りないおかげに繋がって行く為にもです、そこんところ神様を使う信心から神様に使われると言う信心、しかも使われると言う事が有り難いと分かる信心、そういう信心を私はね、信心いわゆる真の信心と言うのと思います。そこにここに真の大道が開けて来るのでございます、真の大道を開き見よとこう仰る、真の大道だいどう真の大道おお道と言うものが自ずと分かってくる。その真の大道おお道が分かってる、その真の大道だいどうを闊歩かっぽ出来るところからです。
 そこからはいわゆる神徳の中に生かされておるという事実をですね、自分の心からそれを頂き止める事が出来る、いうならばあれもおかげ是もおかげと分かって来る様になる、あれもおかげ是もおかげと分かるから、自ずと湧いて来るものは神恩報謝の心である、有り難いなぁ勿体無いなぁという、その有り難い勿体無いが生活の上に現されて来る、信心の上に現されて来る神徳の中にいかに生かされておる、いうなら一応に生かされておるんだけれども、それを知ると知らないと言う事にその人の幸福はあると私は思う。
 信心をさせて頂いておるから限りないおかげが頂けれると、是はもう是はもう限りがないのです、信心をさせて頂いておるから、おかげが付いて来るというのは限りがないのですね、けれどもおかげを頂くから信心をしておるというのであったらね、信心中絶しましたりするとおかげの方が止まってしまう、限りないおかげになって来ない、お取次のお徳によっておかげは受けるに致してもです。それは上野さんの例を申しましたが、上野さんがねそこんところをはっきりこの頃分かって来る様になった。
 お参りすりゃお参りするごとあるはっきり分かって来る様になった、そこでその働きを下さるその神様の心が段々分かって来てですね、ここんところに疑いをまぁそのような神様の働きにもう疑いの余地がなくなって来た、神様の働きに対する。そこでその神様の心に沿う信心、いわゆる本当の信心信心をさせて頂くと言う事が、もう頂くとか頂かないということはもう別にですね、信心させて頂く喜びが身に付いて来る頃から、私はおかげの方がつい来る。
 それは問題は色々ございます、おかげを受けねばならん事は沢山ございますから、お取次を頂いてお願いをするけれども、もうそこには神様にお任せしきったものである、それを下さなければどうということじゃない、そこからこの95節に神は商法にしてはならんと、こう仰る信心が分かって来たと言う事になるのじゃないかとこう思う。そういう意味で思うて見ますとですね。
 神様を商法にね神様を何か盾にとるとか。私今朝出かけに洗面所に奥に鏡が掛っておりますのを、はぁやっぱし鏡ちゃ見りゃならんもんだな、有り難いものは私は必ず見て来るんだ、もうしたらしたらどう言う風に気分の気が悪かったからというて、白襟がずうっと出てからですね、もう実におかしいんです。もし鏡がなかったらそれを可笑しい格好で、御神前に出た事になります。
 信心があるからおかげでですね、鏡があるからおかげでおかしい思いをせんで済むのです、それを信心の教え頂く教えをですね。それを人を責める為の教えにして、人の見せる為の鏡ようになって自分を見ろうとしないような事があります。今日の御理解のような信心の神髄をですね、把握させてもらう為にはどうしても、本当に教えを盾に教えを前に立ての信心になりませんとです。
 例えば今日私が申しますような、信心させて貰うからおかげが付いて来ると言う信心を、体得する事は出来ません。自分は一つも鏡は見らない教えは守らない、それではですねやはり何時まで経っても信心がね。ただおかげを頂くけん参りよるけれどもと言う様な程度にしかなって来ないと思うのです、いよいよ信心が有り難いものになって来ない。どうぞ一つ信心させて貰うからおかげが付いて来ると、言う様な信心に一つならせて頂かにゃならんと思うね。
   どうぞ。